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石巻工場復興のキセキ

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そこから復興を果たすことは、石巻の地域経済の復興に繋がる大きな意義を持つ。

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profile※所属・役職は取材当時のものです。

加藤俊(石巻工場 事務部 製品課主任)
震災当時、本社出版営業部所属。大手出版社や代理店に対し、雑誌や書籍に使用する紙の提案、販売を担当。現在は、石巻工場の事務部製品課に所属。操業現場と本社営業の間に立ち、操業計画の作成を担当する。
志村和哉(石巻工場 製造部 調成課課長)
平常時は、紙の特性に合わせ原料となるパルプを調成する(調合、色の調整、特性の付与を行う)工程を担当。震災復興に当たっては、複雑に入り組み複数の製造工程が互いに影響し合う調成工程において、最初に操業開始する8号マシンの調成工程を単独で稼動させる工事を立案、実施した。
大坂三雄(石巻工場 設計課技術調査役)
設計担当。石巻出身。平常時は、設備の更新や改造に当たり、工事の立案、予算作成、工事手配、施工管理などを行う。震災復興においては、グループ各社や日本製紙各工場からの応援部隊の作業計画の作成、指示を担当。設備復旧においては、あらゆる工事に携わる設計担当の一員として、復興作業に尽力した。
池田直樹(石巻工場 事務部 総務課主任)
平常時は総務課所属(人事担当)として、工場内の労務、人員計画、採用や教育など、工場を人の面からマネジメントする立場。震災復興に当たっては、従業員の安否確認、食料や住まいの確保といった生活手段のケアを行った。

未曾有の大災害が工場と地域住民を襲う

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左:震災直後の石巻工場内の様子。
右:現在の石巻工場、工場内のいたる所で津波の達成地点を記す標示板が設置されている。

 地震発生から約1時間後に石巻工場を襲った津波の高さは2mから3mにも達し、1階部分にあった大型機械を飲み込み、ボイラーの稼働もストップした。パルプ資材などの原料はのきなみ流され、後に残ったのは、無惨に打ち上げられた瓦礫とヘドロばかりだった。

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石巻工場事務部 総務課主任の池田直樹

 「避難を始めた時に降っていた雨が、いつの間にか雪に変わっていたほど、とても寒い日でした」。総務課の池田直樹が、当日の様子を振り返る。
 「津波がくるぞという守衛の声を受けて、工場構外の高台にある石巻工場のクラブハウスまで避難したのですが、途中、介護施設の方をおぶったり、水に濡れて逃げて来た人に毛布を提供したり、従業員だけでなく、地域の人も誘導しながら避難しました」(池田)。

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震災直後避難所として使用された石巻工場クラブを訪れ、当時を振り返る4人。

 総務課所属の池田は、普段、石巻工場の人事担当として、工場で働く従業員と幅広く接しており、まずは、従業員の安否確認や生活手段の確保が池田の役割となる。工場の社宅や独身寮が高台にあったため、震災直後は多くの従業員がそこに身を寄せ、生活を共にした。この時はまだ池田には復興のために自分が何をすべきか思案する余裕もなく、一被災者として、目の前にある途方もない現実に対し、従業員の日々の生活手段を確保することに精一杯であった。

出版営業が直面した深刻な問題

 その頃、当時本社の営業担当として代理店、出版社との取引に当たっていた加藤俊も、深刻な問題に直面していた。
「震災の翌日までは工場と電話がまったく繋がらない状況でしたが、ようやく繋がった衛星電話からは、壊滅的な状況であるという情報だけが入りました」(加藤)。
 加藤は震災から二日後の日曜日には、紙の取り次ぎ商社を招集して、石巻は津波で大変な被害を受け、紙の供給が滞るかもしれないことを伝えた。

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 「3月10日、11日は、8号マシン(抄紙機=紙を作る機械)で、ある大手出版社の文庫向け本文用紙を製造しているところでした。製造予定が止まれば、その出版社は深刻な在庫不足に陥ります。紙が用意できないことによる出版延期という最悪の状況を回避する為に、震災の3日後の月曜日にはその出版社に報告して、代わりに富士工場で作らせてもらうお願いをしました」(加藤)。
 加藤の頭の中には、どこの工場でどのような紙が作れるのか、製造ラインごとに情報が蓄積・整理されていた。

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石巻工場事務部 製品課主任の加藤俊

 石巻工場で生産している紙には、他工場でバックアップ生産可能な紙もあるが、コミックスや文庫に使われる紙など、日本製紙の中でも、石巻工場の特定の設備でなければ作れない品質の紙も多い。日本製紙の出版営業部が販売する用紙に対する石巻工場の紙のシェアは、50%にも及ぶ。国内トップシェアを誇る日本製紙出版用紙の半分が製造できない。もし石巻工場の復旧に目処がたたなければ、日本製紙のみならず出版業界全体に大きなダメージを与えてしまうことになりかねない。

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富士工場では別の出版社の文庫用紙を作っている実績があったので、ここなら代わりができるだろうと見込んでの判断だった。その他にも製造ラインが止まった石巻工場の代わりとなる製造拠点を、紙の種類ごとにプランニングしていった。そして3月17日には富士工場にて文庫用紙を製造し、18日に発送という驚異的なスピードで緊急事態に対応し、用紙不足という最悪の状況は回避されることとなったのだ。
 「石巻工場をフォローするために、全社が一丸となって、同じ方向を向いてがんばれたことは、会社としても大きな財産になったと思います。また、積極的に協力してくださった出版社、印刷会社に感謝しています」(加藤)。

 石巻では、食料の確保もままならない状況から、徐々に支援物資も届きだし、住居を失った従業員に空き社宅を提供。生活再建の端緒につこうとしていた。しかし、工場の惨状は復旧を考えられるような状態では無かった。このまま工場は閉鎖されるのだろうか、従業員は不安を感じながらも、日々の生活を安定させることに必死だった。当時社長であった芳賀が来場したのは、そんな中でのことであった。

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