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石巻工場復興のキセキ

社長来場、石巻工場の復興を宣言

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 3月26日、来場した当時社長であった芳賀は、出社可能な従業員を集め宣言した。
「石巻工場を必ず復興させる。そのために皆さんの力を結集してほしい」
再びこの工場で紙を作ることが出来る、従業員の心には喜びが湧きあがったという。
その後、芳賀は石巻市のコミュニティFMに出演し、地域の方々に対し基幹産業である石巻工場を復興させることを力強く宣言する。
 石巻工場に関わって働く人は、協力会社も含めると、2000人とも3000人とも言われ、取引先も含めるとその倍の数に登る。さらに周辺の食堂や弁当屋など、密接な繋がりがある店舗まで考慮すると、地域経済の根幹を担っている日本製紙の復興は、現実的な意味でも象徴的な意味でも、石巻の復興に欠かせないものだった。

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石巻工場製造部 調成課長の志村和哉
 社長の復興宣言を受け、全社が一丸となって工場の瓦礫除去に手をつけ始めたのは4月頭のことだ。半年で主要製造機の1つである8号マシンの復旧を目指す、それが会社の掲げた計画だった。しかし、正直半年では間に合わないのではないかというのが、現場の肌感覚だった。普段、紙の原料を調合、調成する工程を担当する調成課の志村和哉が当時の様子を振り返る。
 「調成スタッフとして現場調査を行ったのですが、1階部分のモーター類や電気盤はすべて海水に浸かり、地盤沈下の影響で機械は水平状態を保てておらず、また原料はタンクや配管内部に溜まったままで、とても再稼動できる状況ではありませんでした。おまけに、屋根は大きな丸太で押しつぶされ、膨大な瓦礫やヘドロばかりが目に付く状況。正直、普通に考えればここから工場を復旧させるのには、2年、3年かかるだろうと思いました」(志村)。

普段のチームワークが発揮される

 それはゼロから工場を立ち上げるよりも遥かに困難を伴う作業だった。
 途方もない状況から復旧する為に、1日延べ2000人の復旧部隊が、石巻だけでなく全国のグループ会社や協力会社から集まった。まずは、工場内のメイン通路の瓦礫を除去し、人が通れるようになると、手作業で工場建屋内のヘドロや瓦礫の除去に取り組んだ。作業の安全を確保するため、工場内に誰が何人入るのか、いつ戻ったのかの確認が徹底された。この時の迅速な行動は、普段の製造ラインにおけるチームワークが活かされたという。瓦礫の処理にかかった期間は約4ヶ月。それと並行して設備の点検作業がはじまった。
 工場内部の1階にあった設備は、津波の影響ですべて動かない。2階にあるものでも、1階に電源があった設備の多くは使い物にならない。

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 「大きな設備である8号マシンを復旧させるには、どこかを集中的に直せばいいわけではないのです。故障部分が点在しているので、一ヶ所の修復状況を確認するために、また別の場所を直さなければならず、イタチごっこのような状況が続きました。8号マシンから遠く離れた場所にある細い水配管1つ復旧していないだけで、マシン全体が稼働しないことも考えられます。結果的にこれらを取りこぼしなく復旧できましたが、自分の記憶だけではカバーできないので、現場のオペレーターさんと何度も確認しながら作業を進めました。オペレーターの皆さんは、震災当初は石巻工場を本当に復興させるのかという不安な気持ちを経験し、復興が決まった時の喜びや安心感を共にした分、高いモチベーションで作業を行ってくれました。また、日頃から十分にコミュニケーションを図っていたのも、危機的状況の中で活かされたと思います」(志村)。

 志村は、大きな復旧作業のひとつが終わるたびに、達成感とともに燃え尽き症候群のような心理状態になったという。しかしそんな時には、スタッフ長として気持ちを切り替え、周囲を引っ張っていくことを心がけた。

工場の再稼働と万歳三唱  7月末に排水設備が整い、8月には自家発電のためのボイラーが復旧、工場の煙突からは白い水蒸気が上がり、いよいよ紙の生産開始まであと一歩というところまで来た。
普段とは異なる混乱を極めた状況の中で、社員たちは共通してある一つのことを実感していた。それは部署間や、工場の内外といった組織の壁を超えた連携の大切さである。通常自分が受け持つ仕事範囲の垣根を越え、気づいた者が仕事を引受け、全うしていった。一つの目標に向かって全員が主体的に動き、前へと進んでいったのだ。
 こうして震災から半年後の9月16日、当初の計画通りに8号マシンは再稼働することとなった。当日は、市長を招いた式典が行われ、8号マシンから紙が製造されると、現場では万歳三唱が起こった。

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8号マシン再稼働の際の様子。石巻市長、復旧に携わった社員たち、マスコミ関係者が見守る中、 マシンはいつもの音を立てながら稼働しはじめた。

 だが、瓦礫除去の陣頭指揮を執り、設備の復興に尽力した設計担当の大坂三雄は、その万歳三唱の輪の中にはいなかった。
 「9月に8号マシンが復旧した後には、11月にN4マシンの復旧が控えていました。全員が同じ仕事をしていたのではとても間に合いませんので、私はすでにN4マシンの復旧に取りかかっていました。もっとも8号マシン稼働の瞬間は、覗きに行ってしまいましたが(笑)」(大坂)。

石巻工場設計課 技術調査役の大坂三雄
石巻出身の大坂が、地域復興の象徴でもある工場の再稼働に思い入れがないわけはない。しかし、8号マシンの復旧は復興への1つの通過点に過ぎない。与えられた使命を全うすることにこだわるプロフェッショナルの思いが、そこにはあった。
 「石巻工場の煙突から立ち上る水蒸気は、石巻の人にとって復興の“のろし”でもあります。当時の新聞に一般の方が撮影した煙突の写真が掲載され、これが石巻の復興だと紹介されていたときには、復興への使命感を新たにしました。また、水産業に携わる地元の先輩などから、オレ達も頑張るからお前も日本製紙を絶対に復興させてくれという言葉をいただいたのも、ずっと胸に残っています」(大坂)。

真の意味での復興とは

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震災直後から復興までの間の日々の状況が記された
池田の手帳と工場再開を告げる挨拶状。
 これほど大きな災害からの復興は、誰もが初めての経験ばかりであり、手探りで進めていくしかなかった。その時の苦労は、大坂の「画期的な方法なんて無いんです、すべてが人力でしたから」という一言に集約されるだろう。
 全社一丸となって取り組んだ石巻工場の再建は、その後もN4マシン、N5マシン、N6マシン、7マシンと順次稼動を再開し、2012年8月30日にN2マシンが再稼働。紙生産設備の完全復興を果たした。
 震災対応に邁進し、その後石巻工場に転勤し製品課主任になった加藤は、復興後の石巻工場の未来を見据えてこう語る。
 「今ではたくさんの方々に各地から工場見学に訪れていただけるのですが、本当にここが津波のあった場所なのかと思ってもらえるくらい元気な状態にしたい。その為に、マシンの稼働率を少しでもあげて、お客様へ永続的に紙を供給し続けること、それに加えて日本製紙が誇る技術力を集約し、さすが石巻と言われる新製品を開発して、東北地方をより一層盛り上げて行きたい。今後も日本製紙の基幹工場として大きな収益を上げ続けられることが、真の意味での復興になると信じています」(加藤)。

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石巻工場敷地内に祀られた津波の高さを示す慰霊碑の前で

復興までの軌跡

もっと知りたい方は…

「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている」再生・日本製紙石巻工場」

2014年6月 早川書房 刊 著者:佐々涼子

石巻工場の復興までの奇跡を、開高健ノンフィクション賞受賞作家・佐々涼子氏が書き上げた衝撃のノンフィクション。プロジェクトストーリーを読んで、興味を持たれた方は是非読んでみてください。より深く日本製紙のことが知れますよ。


(当社石巻工場製品を使用)

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